『海峡点描』

“海の上を走っていたレール”のお話です(ヤフブロより引っ越し作業中💦)

2015年10月

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またまた他の連絡船ファンの方々運営ブログより、一歩お知らせが遅くなりました。
(大神様、メール頂きながら申し訳ありません(汗)
第7回「青函連絡船講演会」が東京・お台場の‘船の科学館’で開催されます。


第7回「青函連絡船講演会」
日時/2015(平成27)年11月21日(土) 13:30~16:00
開催場所/船の科学館(東京)
参加費/無料

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今回は元檜山丸乗組みの渡邉機関長による、推進装置や機関についての講演が注目ですね。
もちろん恒例の西沢船長「四方‘海’話」や、上杉さん・吉田さん・森本さんの飾り毛布実演も楽しみ!
大神さんの貴重な資料も一見の価値がありますよ~!!
青函連絡船に少しでも興味あるファンの皆さま。
ご遠慮なくお越しください(礼

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猛烈な吹雪・・・・港内にもかかわらず激しく沸き立つ海。
そんな中を、函館第2岸壁へ懸命に着岸しようとする青函連絡船『八甲田丸』。
船尾を押す補助汽船「ひうら丸」と共に、吹きつける風に逆らいます。

最後の冬となった1988(昭和63)年1月、函館桟橋送迎デッキからの撮影です。
この日はひどい荒れ模様。
しかし視界の利かないような天候でも、‘海の鉄路’として安全上許される限界まで運航を続ける鉄道連絡船。
近づいては離れを繰り返しながら、それでも徐々に岸壁へ。
プロムナードデッキから見守る船客たち。
無事接岸し下船してきた人々を見れば、どれもホッとした表情をしていました。
でも乗組員は50分後、再び時化の海峡へ連絡船の舳先を向けます。

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今日6/30は鉄道連絡船『摩周丸』が、50年前に青函航路に就航した日。
6/29のイーハトーヴォ地元新聞にもイベントの記事が掲載されました。
平日開催ですが青森に係留されている八甲田丸の就航50年イベントみたいに、沢山の来場者で賑わうと良いですね。

(*この文章は2015.06.30にメインブログでupしたものを、そのまま転載しました)

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2015年5月12日の地元新聞紙を開いたら、紫雲丸追悼法要の記事が目に入りました。
60年前に多数の修学旅行生を乗せたまま沈んだ紫雲丸。
洞爺丸に次ぐ鉄道連絡船の海難事故は、後の連絡船の安全性向上、更には青函トンネルや瀬戸大橋へと繋がっていきます。

今は何気なく電車が走る備讃瀬戸。
その下で悲劇があったことを忘れずにいる人達・・・・。
イーハトーヴォとはあまり関連ないですが、連絡船が歴史に残した痕跡の深さを新聞記事から感じました。

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国鉄の広島鉄道管理局内にあった三つの連絡船航路。
今でも残っているのは宮島連絡船(現・JR西日本宮島フェリー)だけですが、他に山陽本線大畠駅~周防大島小松港(国鉄バス小松港駅)間の「大島連絡船」と、呉線仁方駅~予讃本線堀江駅間の「仁堀連絡船」がありました。
イラストは仁堀航路に1964年~1975年まで就航していた初代『安芸丸』。
1961年に建造された大島丸(初代)の改名後の写真を参考に描いてみました。
一見すると普通の旅客船・・・・。
実は船体中央に車両甲板があり、車は舷側から出し入れする方法をとっています。

本船は国鉄連絡船初の可変ピッチプロペラ船。
潮流の早い大畠瀬戸で、可変ピッチプロペラは威力を発揮。
その操作性の良さから津軽丸(2代)型や伊予丸型などの渡峡型連絡船に採用されたという逸話もあります。

大島航路→仁堀航路→1975年より再び大島航路へと移った大島丸改め『安芸丸』。
1976年、大島大橋の完成により引退となりました。


【安芸丸(Aki maru)】(数値は新造時)
総トン数257.99t
全長33.4m/全幅9.3m
1961年 大阪造船所にて竣工
定員450名
5tトラック1台
国鉄大島連絡船(大島丸/1961~1964)→国鉄仁堀連絡船(安芸丸/1964~1975) →国鉄大島連絡船(安芸丸/1975~1976)→売却(1977)

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