『海峡点描』

“海の上を走っていたレール”のお話です(ヤフブロより引っ越し作業中💦)

カテゴリ: 青函連絡船(十和田丸)

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青函連絡船を撮影していたのは6年余り。
比較的「良く写っていたな」と言えるような画像が撮れたのは、国鉄からJRへと移行する1987(昭和62)年の3月末から4月アタマにかけて。
訪問時は晴天が続き、青い空と白い雪とのコントラストのなかをカラフルな連絡船が横切っていく光景は、ついシャッターを押すのを忘れてしまうくらい最高の眺め・・・・。
特に貨物系統の8063/8064便『十和田丸』入出港時は、もう文句なしの天気でした。

冬と春との境目を航海する、国鉄時代最後の連絡船たちの姿。
『十和田丸』のファンネル横には、マークを取り換えるための足場が組まれています。

函館駅第一岸壁&第二岸壁の送迎デッキは、カメラを持って何度も写真を撮った場所・・・・そのままでは芸がないと思い写真をちょっと加工してみました。
貨物便なのでプロムナードデッキに人影が無いせいか、‘Kei​ich​i’さん作成の1/80「十和田丸」航行シーンをクローズアップしてみたような感じ。
‘Kei​ich​i’さん「十和田丸」のほうが本物みたいですね(~^

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岸壁で見ている私の横を『十和田丸』が進んでいく。

「この空の下を何回行ったり来たりしたのだろう」
「この空の下を、あと何回行ったり来たりできるのだろう・・・・」

ただ黙々と津軽海峡を渡る青函連絡船。
人々の思いと列車を乗せて運ぶ船は何も語らないけど、何か話しかけられたような気がします。
変わる事のない風景も、あと一年・・・・。

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青森駅第1岸壁に停泊中の『十和田丸』、対岸の補助汽船岸壁から撮影しました。
JR時代末期には、この位置から沢山のファンが写真を撮影。
でも私が撮った国鉄時代は連絡船にカメラを向ける人も数えるほど。
のどかな港内に釣糸を垂れる太公望のほうが多かったのを覚えています。

青函連絡船は一隻あたり青森~函館を1日2.5往復。
このクラスとって楽な航海時間ではありません。
当然荷役時間も制限され、青森・函館の両駅での停泊は50~55分。
入港したなと思ったら、1時間足らずで『十和田丸』は汽笛を響かせ出港。
ゆっくり、ゆっくり。
そして段々と速度を上げて港外へ・・・・今はもう見られない青森の‘日常的’なワンシーンです。

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この写真はネガから直接スキャンしたのですが、保管が悪く色褪せとカビがあるのはご了承ください。
ある年の元日、函館入港の船上から撮影した青函連絡船『十和田丸』。
ドックから出渠したばかりで、 まるで新造船のような姿です。
(カビが酷すぎて、そうは見えないかも(汗)
 真横から見ると客船らしいスマートさと鉄道連絡船らしい無骨さが混じった、なんとも不思議なスタイル。
その機能美が今でも青函連絡船ファンの多い秘密かもしれません。

年末年始、貨物便に入っていた『十和田丸』は荷が動き出すまで沖泊まり。
ピシッとした冷気に包まれた函館港内。
新調したばかりのオレンジ衣装を羽織って、一人静かに浮かんでいました。

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青函連絡船を追いかけた学生時代。
その頃は宮城県の中心都市・仙台で暮らしていました。
当時みちのく路を走っていた北海道連絡列車は多数あったのですが、仙台駅深夜発→青森駅早朝着というのは少なく、青春18きっぷで渡道する時以外は、寝台特急‘ゆうづる1号’‘ゆうづる51号’ か急行‘八甲田’を利用するのが定番でした。

急行‘八甲田’に接続するのは青森駅を午前7時30分に出港する23便。
この時の丙便運用は『十和田丸』。
23便は上野を22時20分に発った寝台特急‘はくつる1号’と、函館と札幌・網走を結ぶ特急‘おおとり’と繋ぐ、青函連絡船の看板便です。
最初の予定ではコレですぐ渡道だったのですが、乗車してきた12系客車の座席に縛られた体をほぐす為、乗船を一本遅らせ25便に変更。
待合室の窓から見送りです。
でも‘はくつる1号’から乗り継いだ客は、ご覧の通りほんのわずか・・・・。
甲板に止められた乗用車も多くはありません。
『連絡船フィーバー』が起こる前は、いつもこんな感じでした。

海はまだ朝靄の中。
青函連絡船って、やはり‘貨車航送船’なんだな・・・・。
桟橋からカメラのファインダー越しにこの風景を見ながら、そんな事を思ったのも過去の話となりました。

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